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記憶

{晩秋の岩木山。中里町}
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いつの頃からか現代人は暗記する事を忘れてしまった。
と、同時に自ら実体験し、頭で考え脳を働かせる能力も手放してしまった。
目で見る情報が全てで、その裏側に見え隠れする実態をも見つける事もしなくなった様である。
多くの人が遊んでいるとき没頭して働き、多くの人が休んでいるとき血を吐くまで研究し、多くの人が笑っているとき精神をすり減らし、胃を壊し考え抜いて身に付けた言葉よりも、テレビで芸能人が話している事のほうが全てで、正しく、テレビに出ない人の意見は嘘で、無意味なものと決め付けてしまっている様である。
テレビの洗脳の力は驚異でありましょう。
現代は知らなくても生きていける。
多くの情報が入り乱れ、嘘でも正しくても普段の生活には何も影響はしない。
知識や経験も必要としない。分らなければ、知らなければ、聞いた事がなければ、コンピューターで検索すればいいこと。社会人になってまで勉強するだとか、命がけで働くとか、自分を犠牲にするだとか、飯も食わず睡眠もとらず研究するだとかは無駄な苦労のようである。
人間はいつから身に付けている能力を必要としなくなったのか?
2~3歳の子供は文字など読めるはずもなく、もちろん書く事も出来るはずはない。
それでも母親の言葉や周りの言葉を‘音’で記憶・暗記する。
最初は「ママ」や「お母さん」「ご飯」などから始まり、日に日に多くの‘音’を覚える。
現代っ子が就職して来ても、自分から仕事をしようとは、まず、しない。
与えられるのを待っているだけ。指示をしても一つ一つしか物事をこなせない。三つ仕事を預ければ、二つ出来れば奇跡に近く、何と褒めてやればいいのか言葉に詰まる事もある。大抵一つ終わったら二つは忘れていることが多い様だ。もちろんその年齢であれば、読み書きは出来るし、言った事を理解する力もあるはずである。では言われた事を暗記しているのか?記憶できなければメモする事は出来るのではないか?それもしない。
自分が持っている能力を活用する術を知らない。出来ないのではなく、やらないだけなのであるが、それも解らないようである。
テレビが全てで、基準で、正しく、社会はテレビの中に集約されている。
テレビを見ない方は携帯電話が同じ役割をしている様である。
{世界の縄文都市、青森市三内丸山から出土した土偶}
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古い神話にこんな話を見つけた。
‘エジプトの古い神々の中にトキを神鳥とする神がいた。この神の名はテウト(古代エジプトの知恵の神トト)といい、彼が最初に発見したものには数や算術、幾何学や天文学、チェッカーやサイコロといった遊び、そして何より、文字がある。’
トトは書法を発明すると、「当時、全エジプトの王」アメン神のところへ行き、全ての人々に書法を広めて欲しいと訴えていった。「王よ、ひとたびこれを学べば、エジプト人はより賢くなり、記憶力が良くなるでしょう。私が発見したものは、記憶と知恵の妙薬なのです。」だがアメン神は、こう答えた・・・・。
‘優れたる者テウトよ、芸術の本質を生み出すことが出来る者と、それが使うものに益や害を及ぼすかを判断出来る者とは別なのだ。そなたは文字の父であるから、愛情ゆえに、その効用について実際とは逆の説明をした。現実のところ、書くことは、学ぶ者の魂に忘れやすさをもたらすだろう。彼らは記憶を使わなくなる。なぜなら、書かれたことを信頼するからだ。だが書いたものは外にあり、他者である記号に依存するものだ。内側から記憶し、自らに完全に頼るものではない。そなたが発明したのは記憶の妙薬ではなく、思い出すための妙薬なのだよ。そなたの生徒は、賢くなったと思うだろうが、それは見かけだけだ。人々はそなたの発明のおかげで、正しく教えを受けなくても多くの物事を知り、物知りになったと思うだろう。だが、多くの場合、本当は何も知りはしないのだ。’
議論の後で、問題や情報の種類によっては、万人に与えるのではなく、「理解出来る者」のみに限定するべきだと考えている事を明らかにしている。それらは、いったん書き記されてしまえば、フラフラとどこへでも行く。理解できる者のところでも、まったく出来ない者のところでも、お構いなしに行ってしまう。話しかけて良い相手と、いけない相手の区別も付かない・・・・・。
{青森市内から八甲田山を眺める}
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テレビを鵜呑みにする様であっていいのか?ルールやマナー・モラルのない不道徳な人に携帯電話やコンピューターを自由に利用させていいのか?金儲けだけを考えている者に株などの取引をさせていいのか?一般常識もない者が、政治家や公共職についていいのだろうか?
精神レベルの平均が、一社会人として大人であってから提供されなければならない物や情報が沢山あるのではないだろうか?
アルコールやタバコ、選挙権に年齢制限があるように、社会人として一定基準の道徳を身に付けていない者には害になる物が多すぎるようである。
刑罰を重くしたりしても何も意味はなさない。刑罰の変動で秩序や治安が良くなる事はないであろう。道徳教育が何より重要なのではないだろうか?
経済成長しか考えず、精神・道徳・教育成長を何もしないからではないか?
他人や者や情報に依存するのではなく、本来人間が身に付けている能力を活用しなければもっと社会は混乱する事と思われる。
記憶や暗記はこれからの時代は必要ないものなのか?
偉い方々が「記憶にございません。」で責任が済むとは思えない。
自分は記憶や暗記はもちろん、物事を自分で判断したり、体で仕事や人間関係を習得する事は必要不可欠と思うのだが、どうなるのだろうか?
でも、この前、食べに行ったラーメン屋で、ジャージャー麺か坦々麺かどっちを食べたか忘れないと、食べる楽しみは半減してしまう。
by tk-mirai | 2008-03-27 16:12 | Comments(0)

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