食道楽

{十和田市内の風景}
b0111551_23393965.jpg食道楽者というと、朝から晩まで食べ物のことを考え、常に今以上に美味しいものを食べたいという願望がある。たった今お昼にお腹いっぱい食べたのに、晩は何食おうか、明日は何食おうか考えているものである。
お金が無ければ美味しいものは食べれないので、その為に一生懸命仕事をしている。
ところが美味しいものを食べ様にも先立つものが無ければ、選好みしている場合でない事もしばしば。自分の稼ぎの悪い事にはしたくないので、景気のせいにして、そこそこのもので我慢するしかない。
しかしながら、本物の食道楽は、他を全て犠牲にしても、今日何としてもこれが喰いたいとなれば、義理人情に反しても、お目当ての物は口にするものである。
それでも自分の我儘で、道徳を犯す様なまねは社会人として、モラルに反するので、しかるべき時の為、美味しいものを食べる為、毎日こつこつと働き、食べる分の金銭は日頃から用意しておかなければ食道楽とは言えないだろう。
ある程度、ピンからキリまで色々なものを食べてしまうと、普段の食生活はいたってシンプルこの上ない。そのシンプルの中にも決まりごとがあり、自然食、旬のもの、無添加のもの、白いご飯に具沢山の味噌汁と季節の漬物に納豆と焼いたものがあればそれでいい。
ところがそのお金のかからない贅沢の中にも景気が暗い影を忍ばせているのだから、腹立たしい。
納豆好きにとって、毎食の納豆のパックを開けるのは毎度毎度のささやかな楽しみである。
納豆の恩恵に与り、納豆を買い忘れテーブルに納豆が無ければ心寂しいばかりである。
もちろん納豆好きが食べるのは、丸納豆であるのだが、「連れて行ってよ」と言わんばかりに、箸で掬えば何も言わずに付いて来る納豆。その姿に哀愁さえ感じる食卓なのだが、原油高がひびき、納豆の量が減らされている。
納豆のパックが石油製品の為、パックの値上がりの分納豆の量が減らされ、納豆好きにとっては、パックを開ける度に心が痛む。こんなささやかな食事の幸せも国は侵してしまっているのかと、怒りを覚えるばかり。
手のひらサイズも無い納豆のパックに世界経済が見て取れ、これから先も美味しい納豆が食べれるのかと心配になる。
この頃はパックそのものが薄くなり、蓋を開けるとき、のりが強いと下のパックがビリッと割けてしまい、納豆がこぼれてしまう。悔しい。悩む。モチベーションが下がる。手に粘々が付いてしまう。
原油の値が上がれば納豆が少なくなるということと同じ物語がまだある。
ラーメン屋さんが暇だと農家が困る。
懐具合が悪いと一番最初に減らされるのは外食。たった数百円のラーメンも高嶺の花となり、ラーメン屋さんの客足も鈍るようだ。
お客さんが来た数の倍の本数が出てくるのは箸。ぱっち、ぱっち、ぱっちとラーメンをずるずる啜るときの前奏を一人ひとりが奏でる。
割り箸はそのまま捨てられる事は少なくなり、何かかしらの形で利用される。リサイクルとして、色々な方法はあるが、農家は春先、畑に種を撒いたり、苗を植えたりする。
苗はまだ生まれたばかり、風や雨などに対する抵抗力が弱く、保護をしてあげなければならない。その保護に使われるのが使用済みの割り箸と肥料か何かの袋。苗を覆うように割り箸をさし、袋を被せる。実に大量の箸が必要となるのである。農家はラーメン屋さんにその割り箸を貰い受けに行くのだが、ラーメン屋が暇だと箸が少なく、農家にとっては足りないので、農家は頭を抱え、箸をどうしようかと悩む。
納豆のパックを開け、悩むようにラーメン屋さんも農家も多くの方が悩むのだ。そもそも根本的な問題は、戦争などというくだらない行事をして、原油高にするからだろう。もちろんそのほかヘッジファンドの参入、アメリカの石油備蓄基地問題・製油工場なども関係するとは思われるが・・・・・。
環境のために納豆のパックも割り箸も考えなければならない。
利益至上主義の先にあるのは戦争なのであろう。国や政治が庶民のささやかな幸せを犯してはならない。
食道楽が思うことはただ一つ。”今以上に美味しいものが食べたい。平和であってほしい。”というだけである。
b0111551_2340156.jpg

{三戸城跡から三戸町を望む}
by tk-mirai | 2007-09-26 18:06 | Comments(0)

未来のオーナーのブログ


by tk-mirai
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31