教科書

{津軽の元日の食べ物。年末31日にドンちゃん騒ぎをしてご馳走を食べた翌日に四角い切り餅を焼いて鰯の焼干しと鳥牛蒡の醤油出汁でセリを加えたお雑煮。その後餡子か黄な粉で焼餅を食べます。}
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自分が料理の本を読まなくなって何年くらいになるだろう?
料理屋を商っているのにそのように言ってしまうと「不勉強だ!」とお客様からお叱りを受けそうですが、もう料理の本を読まなくなって何年にもなるものです。
料理の仕事を始めた当初は、料理の本ばかり読んでいて、仕事が終わってからも夜通し料理の本に噛り付いていたもので、気が付けば料理本にうずくまって寝ていて朝になっていた。ということが毎日のことでした。
二十歳から、主に東京などに勉強がてらに食事をしに出て歩き、三日間昼夜昼夜昼夜と食事のスケジュールを入れてその間間にそば・ラーメン・ケーキ・和菓子・デパ地下などを食べ歩き、残った時間は美術館か神保町に行って本屋巡りをしていたものです。
「もし東京に住むなら、神保町だな~。」と思っていたのは二十代中頃の事で、その当時、新書・古書に関係なく神保町に行ったときは、20~30冊料理本を買い求め自宅に宅急便で送っていたものでした。
二十年前の話になりますが、もうその当時でさえ、新書よりは古書のほうが料理本の完成度は高く、景気の波に左右されやすい飲食業ではバブルも崩壊していて、自分が社会人になったときには就職氷河期という言葉が既に存在し、作るのに時間とお金がかかるいい料理本自体作られなくなっていた時期でもありました。その当時はそのように考えていた訳ではないけれど、読んでいると新書の内容が薄っぺらくなっていくのがひしひしと感じられたものでした。その為、自分は古本屋巡りが主流で、景気のいい時代の出版もの、もしくは古い料理本を探して歩いたものです。
二十代も中頃を過ぎると、どの本も同じ内容しか載っていない写真やレシピの料理本には興味はなくなり、料理についての思想や哲学的な事柄を文章化した字ばっかりの料理本をよく読んでいたものです。
日本料理では辻嘉一さん。洋食では辻静雄さんをよく読んでいたものです。
三十を過ぎても料理の写真が載っている本を読んでいたのは、たまに東京や京都で人気の料理屋さんを取り上げ出版社が「売れるだろう!」と目星をつけて出版してくる立派な本と、江戸料理の完成度の高い本だけでした。それでも結局繰り返し読む本は古典的な料理を扱っている本に収まってしまいます。
二十代の頃は、料理本のレシピ通りに料理を作り、そのうちレシピ通りでは美味しく出来ないことを自覚し、分量調整や食材の組み合わせを変えたり、調味料を変化させたりして自分なりの真似事料理を作り続けるものです。それを何度も繰り返しその料理を変化させることにより、オリジナルっぽい料理が出来上がっていくものです。ところが、結局そのベースにあるものは古典の料理で、その料理の周りをひっぺがえしてみると中身は江戸の後期には既に存在した料理が出てくるわけです。
{正月明けの刺身箱。大間の本鮪。今別産天然活締め平目。津軽海峡槍イカ。今別産天然活締めふぐ。三沢産北寄貝。槍イカの耳とゲソ。}
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よくテレビ・マスコミでは「新しい料理。」という言葉を平気で使っていますが、古典を認識している人から見れば新しい料理など何一つ存在しなく、見せ方提供の仕方食べさせ方などをちょっといじくっただけで、すべて古典料理に源流があるものです。食材をいくつも混ぜ込んだり、調味料を多種多様に足し算する料理は食材の質が低いものだからです。それかデザイン性を重視した見せる料理でしょうか?
日本料理の基本、五味五法五色というものは未だに普遍的なものです。
甘い辛い酸っぱい苦い塩辛い。生・焼・煮・揚・蒸。赤・青(緑)・黄・黒・白。
五味に旨味や作り手の思いを足して六味というときもありますが、基本は変わりません。
二十七の時に「今以上に美味しい料理を作るためには技術論や知識論ではない。人間性を高めなければ今以上は有り得ないんだ・・・。」と感じたとき、料理本、特に写真やレシピが載っている本を見ることを辞めました。その様な本には内面を高める要素が一つも示されてはいないからです。
それからはあまり料理本を買わなくなり、多種多様なジャンルの本を見るように心がけました。
人間性を高めるには一つのジャンルに収まっていては、世間知らずになるだけです。
自分が独立して店を持ってしばらくして感じたことは「職人は早く厨房から抜け出し社会の声を聞き社会と接するべきだ。」と強く感じたものでした。
料理屋で働く職人は一日平均15~16時間は厨房に閉じこもりきりです。親方・先輩・同業の職人・仲居さん方など限られた人としか接しません。その日の天気もニュースも分からず過ごすのが日常的です。そのような状況では社会の変化・ニーズも把握出来ません。
料理を発展させ、今以上に美味しいものを作り上げるには世情に通じることも不可欠です。
多様な本を読み多様な職種の方々と接することによって、人間性が高まり深まり物事のレベルアップは出来るものでしょう。
その様に別なことに頭を使うことによって、今までなんとも思わなかった感じなかった料理が「こんな事してみよう。あんな事してみよう。こうすれば何か変わるかもしれない。」とアイディアが浮かんでくるものです。
料理本を見ているうちはその教科書の中から抜け出すことは出来ません。教科書通りの料理を作っていては一般受けはしても何処にでも在る料理のレベルにしかならず、料理屋・レストランを常に食べ歩いている現代のお客様を感動させる事は出来ないと感じます。それ以上に作っている自分がつまらないです。お客様が飽きる前に作っている自分が飽きなければ料理屋は継続できません。
料理本、教科書に載っている料理は関東・関西料理が中心です。日本各地に優れた郷土料理が存在するのにその様な郷土色溢れる本を出版する方々は少なく、どうしても経済力のある都市部料理が中心になってしまいます。
その様な料理本は「日本料理とは京料理です。」「日本料理とは江戸料理です。」という主張が強く、歴史本と同じく経済力と勝者が作り上げた正当化と営業のプロパガンダの様に感じることもあります。
日本中何処に行っても京料理や江戸前じゃ面白くないと思いますし魅力は無いと感じます。
{津軽平野産蕎麦もやしと倉石村産黒毛和牛スネ肉。黒毛和牛の上物になるとサーロインは脂肪が強くていただけませんが、スネ肉の筋の内側の赤身が柔らかく味わいが良く非常に美味しいです。スネ肉は硬くて煮込みという概念を払拭してくれます。}
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自分が作る料理は、その土地の気候風土、人工的には作り出すことの出来ない自然の力が生み出す産物を利用し、その土地ならでわのその土地に見合ったその土地だから可能な美味しさを作り出すことです。デザイン性や売りが先行したよそぶった料理ではなく、その土地の根源を表すことです。ここでしか表現できない料理。ここでしか食べれない料理。自分にしか出来ない料理が目標です。
その為、京料理や江戸料理に主眼を置くことはありません。ですから、料理本は全くではないですがほとんど見ません。自分が求めているものは、教科書にはありません。教科書の先にあるものです。
青森という類稀な多様な食材の宝庫に根ざした料理を作り出すため、先人が生み出してきた郷土料理に重点を置いています。郷土料理や古典の普遍的な要素を土台にし、それを仕立て直し洗練させそのレベルを上げていくことです。
リーマン予想を解き明かす学者は、既存の数学本もネットも見ません。ただひたすら毎日白い紙とペンを持って机に向かって考えているだけです。世界的な画家や芸術家も同業の本もネットも見ません。そこには求めている答えもアイディアもないからです。最先端のプロ棋士は定石を無視し、過去に例の無い一手を探しています。
現代人は分からなければネットをすぐ開きますが、ネット情報や本の情報はもう過去の情報で最新情報でもないし最先端でもありません。特にインターネットは一番重要な要素はほとんど示されてはいないでしょう。
ある物理学者は、教科書通りに見晴らしのいい空気の澄んだ小高い丘に巨大望遠鏡を設置し宇宙の星星の位置関係を調べますが、ある学者は自分に送られてきた使い古しの封筒の裏側にペンを走らせ星星の関係を計算すると聞いたことがあります。何百年も常識と考えられてきた天動説を覆し、太陽を止め地球を動かした学者は教科書を否定し、地動説を唱え非常識を常識へと導いたそうです。
どの業界も同じく本にもネットにも答えが無い本職の方々は自分自身が答えを出すしかないものです。自分自身が教科書になるしかありません。
技術と知識と経験・五感を研ぎ澄ませ、教科書の先を導き出さなければなりません。
{十和田産肉厚の原木椎茸を薄甘く煮付けて、津軽海峡産天然活締めババカレイの甘酒味噌焼き。}
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自分にとっての教科書は、もっぱら津軽のお婆ちゃんお爺ちゃん達です。
青森県内の食材を探しに出かけ、その土地の気候風土・環境を実際出向いて身に染みて感じ取り、その土地の方々と接して食事を一緒に取って会話を交わす事です。
70を過ぎた方々の家庭の料理には、教科書では見ることが出来ない様々な気候風土を反映した土着の料理が表現されています。
未だに、「こんな料理が有ったか~。」「こんな食材の組み合わせが有ったのか~?」と感じることがあります。料理本にはまったく無い料理が有る物です。気候風土が変われば取れる産物もおのずと変わり料理も変化し美味しさも魅力も違いが出てくるものです。
自分の経験上、いくら本を読んでも、いくら人の話を聞いても、芸能人が旨いといっても、ネットで情報を掴んでも、自分自身が出て行って実際に経験し、一度や二度ではなく身に染みて感じ取れるぐらい経験を積まなければ本質は見えないと思います。
料理本を読んでレシピ通りに作って、「本と実際では違いがあるのか?」と、その店まで食べに行き、気落ちしたことは一度や二度ではありませんでした。「築地には日本各地の一級品がすべて集まる。」とマスコミや評論家が謳う言葉が「本当なのか?」と行ってみて、「んん~。そうかな~?いい物もあるけどそうでもない。見てくれはいいけど、味は別だな。食材が旅疲れしてる。」と感じるものです。お土産に高級デパートで話題の箱菓子を買い求め、心躍らせ立派な包装・薀蓄講釈が書いた紙をひっぺ返して食べてみたら「味気ない。薄めすぎ。これで美味しいの?中身よりプレゼン優先。」という経験は幾度もありました。
BGMも会話も殆どなく、淡々と静かに天ぷらを揚げるベテランの職人の仕事ぶりに「これが職人芸だよな~。天ぷらが揚がってくるのを待つ時間がご馳走だな。」と感動したこともありました。本で見て「こんな感じかな?」と作った料理を確かめにそのレストランへ行ってみて「いや~、違った。エイ料理ってこんなに旨かったんだ!」と想像だけではだめだと感じたことも有ります。店を広げず増やさずこじんまりとしているのに風格のある佃煮屋さんに行って食べたとき「んん~。これが佃煮・・・。確かにご飯が余計に進むな~。小さくても長く店をやるってこんな事だな~。」と勉強になるときもしばしばありました。
料理を作り続けて感じることは、究極の美味しさは人工の対極に有るものだということです。
古典に示されているように「野鳥は人から餌を貰わず、山菜は人の世話は受けない。その風味はもっとも美味しく清らかだ・・・・。」ということです。
売りが先行し、利益追求型の甘味料・香料・旨味調味料・着色料・添加物などが多用された加工食品が市場を独占していますが、そこには偏った人工的な味しか有りません。
結局のところ、すべての教科書は自然に集約されているものだと感じるものです。
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{真冬の津軽の郷土料理の代表格、人参の子和え。人参と糸こんにゃくと津軽海峡の真鱈の卵を使った一品。}

楽天ブログ‘青森’もご覧ください。
ライブドアーブログ‘世界に誇れる青森の郷土料理’もご覧ください。
ヤフーブログ‘食の桃源郷 青森’もご覧ください。
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Commented at 2017-01-28 23:10 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by tk-mirai at 2017-02-27 20:49
> テイさん
こんばんは。
パソコンを変えたら色々問題が発生しています。
メールは
webmaster@tk-mirai.com
です。
一応メールも送ってみました。
届いているのかな?
by tk-mirai | 2017-01-10 16:01 | Comments(2)

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